院長のコラム

『41歳の地図』 PART1

『はじめに』
和歌山県医報の「紀州路往来」に投稿したエッセイが、コラム第一弾となります。5600字程度の大作となりました。

ある日、日頃から大変お世話になっている田辺市医師会広報担当の水本博章先生より、患者さんの検査依頼とともに、ぽつっと「個人的な依頼なのだが、和歌山県医報の紀州路往来にもしよければ書いてくれないか、無理にとは言わないから。広報担当も何かと大変で、そろそろ辞めようかなと思っているので最後の願いになると思うけど。」という内容のメールが届いた。分かったよな、よろしくね、頼んだよ、とその筋の人から暗に脅されているような恐怖を感じ、一方、紀州路往来という言葉はあっても、これを実践した医者はいないよな、という妙な自信から、二つ返事で了解してしまった。その後、何ヶ月分かの県医報を見てびっくり、まさに「へたこいた~」という暗澹たる気分になった。旅行記、信条・哲学、歴史、多彩な趣味等々、こだわりをお持ちの先生が、ところ狭しと、自由奔放にしなやかに書かれているではないか。しかし逆に考えれば、水本先生が私を先生方のような書ける人間と評価してくれたのだ、と誠に勝手ながら解釈できる。それに、県医師会の先生に私という人間がどのような人物かを知ってもらうかっこうの機会である。
 『人生波瀾万丈』
私は昭和41年に北海道札幌市で生を受け、父の仕事の関係で4才の時に和歌山県田辺市に来た。地元の小中高校を卒業して、昭和60年に岡山県にある川崎医科大学に入学、平成3年に卒業した。私の父は田辺市医師会第16代会長であった長嶋伸幸である。よくある偉大な父を持つ不肖の長男である。芸能界しかり、長嶋茂雄を代表とするスポーツ選手しかり、カリスマ創業者による大会社しかり、大体2代目はうまく行かないものである。私なりにも、私立医大卒業の開業医の子弟が斯界で生き残っていくためには「肩書き」と「腕」が必要と考え、先ずは学位、卒業と同時に旭川医科大学大学院(医局は第三内科に入局)に入学した。よく、なぜ旭川?、と聞かれるのだが、父親がお世話になった並木正義先生に学びたいというエディプスコンプレックスなのか、はたまた、自分が生まれた地への回帰願望なのか・・・。学位取得後は御礼奉公のため釧路、岩内の各病院で研鑽した後、「腕」に磨きをかけるべく上京を希望し、茅場町にある(財)早期胃癌検診協会に勤務した。当時、元国立癌センター中央病院院長である市川平三郎先生がいらっしゃられ、バリウムを用いた消化管の検査診断学を学んだ。しかし、これからという矢先に父が病に倒れたため、上京後わずか半年で地元に戻ってくることになった。次のステップまでの約1年半はまさに雌伏の時であった。世代間の意識格差が大きすぎて医院継承はうまく行かず、父親が一旦復帰したため勤務した民間病院ではやる気が空回りし不完全燃焼、悶々とした日々を過ごした。この期間をバネに、父が亡くなった後、飯田三雄先生(現九州大学教授)がいらっしゃられた川崎医科大学の消化器内科IIの門を叩いた。この1年半後に飯田先生は九大教授に栄転され、次に来られたのが現教授である春間賢先生であった。春間先生には総合臨床講座の講師に推挙していただいた。3年と短い期間であったが、日本を代表する消化器病の重鎮二人に薫陶をいただいたのは、私のその後の人生に多大なる影響を及ぼした。この後は大阪大学第二内科経由で平成15年4月に現南和歌山医療センター消化器内科医長として地元に帰って来た。18年3月末に退職し、県下各地の非常勤医師として約1年勤務した後、昨年2月に開業した。現在は和歌山県立医大第二内科同門会の末席を汚させていただいている。
これが、計5つの医局、8人の教授にお世話になった、私の自由奔放「医局往来」の半生である。

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