Creepy Nuts:時代を超越する「言葉」の処方箋
Creepy Nutsというユニット名、今や知らない者はいないだろう。DJ松永とラッパーのR-指定、この二人が織りなす日本のヒップホップユニットだ。正直なところ、僕は彼らの音楽を意識的に追いかけていたわけではない。普段、BGM代わりに流している音楽サブスクリプションサービスの「ベストヒット」的なプレイリストで、知らず知らずのうちに耳にしていたのだろう。
しかし、楽曲とユニット名が僕の脳内で明確に結びついたのは、TBSの金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』の主題歌『二度寝』を聴いた時だ。「ふてほど」の通称で親しまれたこのドラマは、1986年と2024年という、およそ38年の時を超えて行き来するタイムスリップ・コメディー。主人公の昭和の男が、令和の価値観に戸惑い、また逆に令和の人々が昭和の「不適切さ」に触れることで、現代社会の「自粛」と「忖度」の風潮を痛快に笑い飛ばす宮藤官九郎脚本のドラマであった。
かつては、楽曲とドラマのタイアップといえば、レコード会社とテレビ局、スポンサーの様々な思惑や商業主義的な大人の事情が複雑に絡み合い、「どうにも世界観が合わない」と首を傾げるようなケースも少なくなかった。ところが、この「ふてほど」においては、Creepy Nutsの楽曲『二度寝』が、驚くほどドラマの世界観と合致していた。
昭和生まれの主人公が、令和の閉塞感と生きることの息苦しさを感じながらも、令和の進化した便利な世界を享受する。昭和と令和を行き来する中で、どちらかの世界に二度と戻れない不安、そして「どちらでもいいや」というふて寝に似た気分の二度寝。R-指定の巧みな言葉選びと、松永の構築する洗練されたビートに乗せて提示する彼らの才能に、僕は素直に感動を覚えた。
僕は音楽の専門家ではない。ラップ、すなわちヒップホップという音楽手法についても、せいぜい「溢れんばかりの言葉を、独自の韻とリズムに乗せて歌う」程度の認識しかなかった。
僕自身の音楽史を振り返ると、初めて「ラップらしきもの」を意識したのは、1984年発売の佐野元春のアルバム『VISITORS』に収録されていた楽曲群だ。当時はまだ「ラップ」という言葉が一般化しておらず、「ポエトリー・リーディング」に近い感覚で聴いていた。その後、久保田利伸の楽曲にも、R&Bのテイストを帯びた「歌うようなラップ」を感じた。
次に、ヒップホップの可能性と奥深さを感じたのは、Dragon AshやKREVAだった。しかし、Dragon AshのボーカルKJの全身TATTOOには正直少し引いてしまった。楽曲はクールでも、TATTOOはノーサンキュー。KREVAに関しては、ミュージックビデオ(MV)を観て、彼がヨウジヤマモトを愛用していることが見て取れた。デザイナーズブランドを好むという共通項、そしてそのファッションセンスが、彼の創り出すソリッドで知的な楽曲の空気感と合致している点に、一種の「近しい感覚」を覚えたものだ。
しかし、僕にとって、ラップという音楽は、どこかストレートすぎた。あくまで個人的な主観だが、ヒップホップは「ノリとリズム」が高揚感を煽る時には最高だが、僕が好む「内省的な時間」、例えば悲しい時、寂しい時、一人静かに物思いに耽りたい時には、あまりにもエネルギーが強すぎて、聴くのが少し厳しく感じていた。それにB-BOYのやんちゃなイメージが僕にはどうも合わなかった。(2につづく)






