新春、搾りたての「生」を啜り、厄を払う
【杜氏の執念が宿る「縁起酒」】
「立春朝搾り」は、その年で最初に搾られた日本酒だ。フレッシュでフルーティー、そして力強い無濾過生原酒。立春の朝に合わせて最高の状態に仕上げるため、蔵元にとっては非常に難易度が高く、徹夜作業も辞さない「杜氏泣かせ」の逸品である。「搾りたての躍動感」をそのまま瓶に封じ込めたと言っても過言ではない。
この酒を「縁起酒」として頂き、一年の無病息災を祈願する。季節感や縁起担ぎを重んじる、日本人らしい文化的な営みだ。地元の居酒屋「膳」と酒屋店主からの提案で、僕が音頭を取り「祝い酒を飲む会」を立ち上げた。南国和歌山とはいえ、夜間には零度近くまで冷え込むこの時期。あえて濃厚で荒々しい日本酒で乾杯するのが、僕たちの流儀である。
【祝詞と原酒、内と外からの「消毒」】
個人的なことだが、一月二日に熊野本宮大社で本厄の厄払いを受けてきた。神職の祝詞に身を正した神事に続き、今度は搾りたての原酒による「内側からのアルコール消毒」で仕上げといこう。
例年は立春を過ぎてから、和歌山や奈良の銘酒を数本揃えて利き酒を行うのが恒例だ。仲間といっても総勢二十数名。飲み比べとは名ばかりの、単なる「呑兵衛」の集いである。今年は当日開催だったため、用意されたのは『超辛口』で名高い奈良・春鹿の原酒のみ。力強い原酒でありながら、食事の邪魔をしない凛とした潔さは、まさに春鹿ならではの矜持だ。
【「頭のイカれた」仲間たちとの至福】
開宴直後こそ、「フルーティーだ」「このキレが……」と、もっともらしい評価が飛び交う。それも最初の三十分だけ。気づけば「とりあえずビール!」「チェイサーにハイボールを」と、もはや「新春・立春」を免罪符にして、ただ飲みたいだけの宴へと変貌する。
この会を主催して、かれこれ七、八年。感染症が猛威を振るうこの時期に、なおも熱く杯を酌み交わそうとする、ある種「頭のイカれた」愛すべき連中。彼らと笑い飛ばす時間こそが、僕の至上の喜びなのだ。
【虚飾のSNS、剥き出しのリアル】
SNSやブログに溢れる、友人との交流、美食、趣味の独白。還暦を目前にした今、確信を持って理解したことがある。それらの心理を読み解こうとするなら、「鏡を覗くように裏側を返せばいい」。
「華やかな交流」は日常の孤独を埋めるための稀有なイベント。「美食の自慢」は自らの立ち位置を確認するためのマウントポジション。「一人語り」は、リアルワールドで誰にも聞いてもらえない承認欲求の裏返し。ブログの中に漂う薄っぺらな高揚感は、地に足の着かない現実逃避に興じているに過ぎない。実社会でで額に汗し、命を燃やしている人間は、わざわざそれを誇示したりはしないものだ。
【表現の流儀:ラベルなき生き方、濁りなき対話】
「そういうお前はどうなんだ」という声が聞こえてきそうだ。確かに、この院長コラムにも景気のいい話は書く。しかし、僕はそれ以上に、自分自身や家族が抱える苦悩、そして格好のつかない泥臭い苦労をさらけ出してきたつもりだ。
僕は、この「肉体(リアル)」を基点に思考する。ヨウジヤマモトで装い、シルエットを整える美学は持っていたい。だが、生き方そのものは、ラベルの無い剥き出しのままでありたい。自分の苦しみや無様さを、他人の借り物ではない自らの血肉となった言葉で綴ること。それこそが「表現」だと信じている。
だからこそ、僕が「飲み会をしよう」と声をかければ、これほど多くの人が集まってくれる。年齢、性別、職業……あらゆる肩書きを脱ぎ捨て、一人の人間として濁りなく語り合えるこの時間。それこそが、僕の人生における唯一無二の「宝物」なのだ。






