サイカザキに佇みながら(独り言としての追伸):フェラーリの新型車に思う(3)
新型「フェラーリ・アマルフィ」の試乗会がポルトガルで開催されたという。「アマルフィのお披露目なのに、なぜポルトガルか」などと、野暮な突っ込みを入れるのはよそう。それと歩調を合わせるように、巷には評論家やインフルエンサーによる、いかにももっともらしい試乗記が溢れかえり出した。
「六軸センサーとバイ・ワイヤの融合が、異次元の制動を生んだ」 。なるほど、技術の進歩は恐ろしい。だが、人体の構造には通じていても機械の腹の内には疎い医者にとって、そんな無機質な文字列は呪文も同然だ。具体的にそれが何を指し、僕の右足に何を語りかけてくるのか、一向に見当がつかないのである。
評論家諸氏は、新型がいかに技術的に優れ、快適になったかを、立て板に水のごとく説き伏せようとする。曰く、新機軸。曰く、リニアな恩恵。理屈としては、おそらく正しいのだろう。けれども、「限りなくフルモデルチェンジに近い」などと声高に深化を強調されればされるほど、僕の胸の内に住まう「眉唾センサー」が、不吉な震えを立てるのだ。
思わず、画面の向こうの彼らに問い詰めたくなる。「ところで。そのポルトガルまでの航空券と宿代は、まさか自腹を切ったわけじゃないんだろう?」 。こういうのを、世間では提灯記事と呼び、あるいは忖度と切り捨てる。そう思いながらも、それが彼らの仕事なのだ、と少し切なくなる。
僕が愛車に求めるのは、過不足のない「正しい工業製品」ではない。日常生活の最適解を求めるならば、迷わずレクサスのSUVを選べばいい。あれは実によくできている。故障とは無縁、ディーラーのホスピタリティは完璧。リセールバリューまで含めれば、これ以上の「正解」はこの世に存在しない。もっと言えば、この日本では、トールワゴンこそが空手界の大山倍達のごとき、絶対的な正義なのだ。
だが、僕が初めて手にしたフェラーリ――あの「ローマ」は、根本から違っていた。 衝撃、欲情、そして制御不能な情動。それらが、僕の持ち合わせた貧弱な理性をあっさりと凌駕してしまったのだ。以来、跳ね馬を冠するクルマを、僕は単なる移動手段としてではなく、一つの「感性」として眺めるようになった。「音がうるさい」「ブレーキが唐突だ」「足が硬すぎる」……。凡庸な物差しが並べる欠点など、ステアリングを握り、アクセルを一踏みした瞬間の快楽の前には、ただの雑音に過ぎない。見た目と乗り味だけで、乗り手の呼吸を乱させ、正気を失わせる。あの「毒」こそがフェラーリの正体だと、僕は信じている。
「疲れにくい」「街乗りにぴったり」。 そんな軟弱な美辞麗句で語られるようになったアマルフィを横目に、僕は改めて、ガレージに佇むローマの、不器用なほどに豊潤なラインを愛でる。 結局のところ、僕らは効率的に移動したいわけではないのだ。激しく、残酷なまでに心を揺さぶられたいだけなのだ。たとえその行き着く先が、イタリアの理想郷などではなく、潮風薫る雑賀崎の漁港であったとしても。
最後に、ふと気づいた。ローマ発表時の、あの熱狂的なまでの称賛に比べ、アマルフィに対する言葉は、どこか空々しい。「エクステリアは優雅」と、技術解説の熱量に比べて、あまりに淡白ではないか。この「語り口の温度差」こそが、アマルフィというクルマの悲劇を物語っているような気がしてならない。もしこれが単体で現れたなら、間違いなく名車と称えられただろう。だが、ローマという名の先に置かれたことが、このクルマの宿命だった。 実車を目の当たりにした時、この釈然としない予感は、果たして覆されるのだろうか。 その時を楽しみに、今はただ、潮騒に耳を傾けていたい。






