僕の「矯正不能な自我」と現実世界の曖昧さ:還暦前の人間関係考(2)
『思い通りに行かなかった人生の一因は、僕の強すぎる自我と自己顕示欲、そしてアクの強い性格だ。周囲を振り回し軋轢が生じることもしばしばで、「なぜ自分はこうなのだろう」と思い悩み、眠れない夜を過ごしたこともあった。苦悩し反省を重ねても変わらないこの「矯正不能な自我」は、確かに組織人としては馴染めなかったけれども、社会のルールを破る社会不適合者ではなかった』。
これは、現在、僕が執筆中の自叙伝の一節である。この不器用な性格こそが、僕の人生の原動力であり、同時に障害物でもあった。
そして今、僕はその「矯正不能な自我」の真っ只中にいる。現在、とある団体と正面から衝突しているのだ。僕がある見解に対して明確なルール違反だと断じれば、相手方は「グレイゾーン」であり見解の相違と説明する。現在、係争中で結論はまだ出ていない。
身近な第三者からは、「そんな些細なことでむきにならなくてもいいのでは」と忠告されることも少なくない。しかし、僕には「公私の別を曖昧にする姿勢」や「ルールを都合よく解釈する態度」がどうしても許せない。自分で招き入れたことながら、この「信念と現実のギャップ」に、僕は今、もがき苦しんでいる。
院長コラムでも何度か記してきたように、僕の周囲には、忘れかけた頃に必ず揉め事が沸き起こってくる。普通なら、多くの人が「見て見ぬふりをする」「我慢する」「愚痴をこぼす」、自分を殺して済ませるのだろう。だが、この自我が強い僕には、他人には取るに足らないことでも、倫理や原則に関わることは看過できないのだ。
以前は、自我の強さが周囲との軋轢を生んでいると内省していた。しかし、自分の人生を立ち止まって振り返っている現在、「自我」は、単なる自己主張や迷惑行為ではない、「自分の言動に責任を持つ」という信念を貫くことだと再認識し始めている。
先日、佐野さんのライブで経験した人間関係における「誠実性と現実性の間の埋めがたいギャップ」も、この衝突と本質は同じだ。現実世界には、「その場限り」「責任が伴わない軽率な行動」「愛想」「偽善」が蔓延しており、それこそが人間関係の本質なのだ。
この衝突と反省を経た今、自叙伝の第8章「はずれることばかりの人生」の節で、『自信を持って正しく生きるはずだったけれども、紆余曲折ありながらも間違った人生ではなかったと自負している。「正解」か「間違い」か、「成功」か「失敗」か、僕の人生は一体どちらなのだろう』と自らに問いかけ、僕はこう締めくくる。
『この年齢になり改めて感じることは、「人生において正解か間違いなんて、実はどうでもいい」ということだ。大切なことは、「自分がした選択を後悔しないこと」「身の程をわきまえること」、そして尾崎豊が問いかけた「自由に生きること」だ』。
僕が現実社会で馴染めない理由は、この「矯正不能な自我」と「信念の貫徹」にある。そして、その生き方を選んだことに、僕は現在、『わが人生に悔いなし』(石原裕次郎)、「我が生涯に一片の悔いなし」(『北斗の拳』ラオウ)のつもりでいる。(3につづく)






