残クレという免罪符で「猛毒」を飼う――フェラーリ・ローマと日本のアマルフィ・雑賀崎

以前、院長コラムに投稿したものをnote用にまとめ直しました。https://note.com/hazremon/n/n39d343056a72?magazine_key=m9ed2d799b42f
【「跳ね馬」への乗車券と、胃の疼き】
まさか、よもや、あろうことか。僕はいま、フェラーリ・ローマのステアリングを握っている。
誤解しないでほしいが、金が余っているわけでも、世間に自慢したいわけでも、ましてや選民意識に浸りたいわけでもない。そんな俗物的な感情は毛頭ないのだ。
あるのはただ、脳天を突き抜けるような美的衝動と、「この造形美を手元に置きたい」という本能のみ。そして、それを現実のものとするための最強の魔法、その名は「残価設定型クレジット」。略して「残クレ」を利用して、「フェラーリ」という禁断の果実に手を伸ばしてしまった。
地方の開業医といえど、数千万円のキャッシュをポンと出せるほど、蔵に小判が眠っているわけではない。そこで登場するのが、現代が生んだ究極の免罪符「残クレ」である。
車両本体価格の75%を3年後の下取り価格(※確定保証ではない)として据え置き、残りを分割で支払う。平たく言えば「未来の自分への借金の付け回し」だが、この魔法の呪文を唱えた瞬間、手の届かなかったはずの跳ね馬が、急にこちらの体温を感じる距離まで近づいてきた。
かつてRCサクセションは『雨上がりの夜空に』で「いつものようにキメて ぶっ飛ばそうぜ」と高らかに歌った。僕がキメてぶっ飛ばすためのチケットは、36回の分割払いで手に入れたものだ。「分不相応」な代物だが、それでもいいと思った。
毎月の支払額の通知を見るたびに、胃のあたりが少しキュッとなる。だが、その疼きこそが、僕がこの美しい「猛毒」を所有しているという、生々しい証左なのだ。
【現代の「トヨタ2000GT」、白い朝の邂逅】
2019年11月、初めてローマを見たとき、直感的に「現代版、トヨタ2000GTだ!」と奮い立った。エアロダイナミクスを考慮したこれ見よがしの開口部も、大げさなキャラクターラインもどこにもない。
「ミロのヴィーナス」を思わせるふくよかで豊潤なボディ。まるで人体の曲線美を表現したかのような生命感みなぎる優美なライン――これこそが、僕が求めていたクルマだった。
「名は体を表す」というが、これほど情緒的なネーミングはあるだろうか。イタリアの首都であり、ファッション、アート、建築の至宝。その街の名を冠し、フェデリコ・フェリーニ監督の映画『甘い生活(ラ・ドルチェ・ヴィータ)』から着想を得たという「ローマ」。
コンセプトは、「LA NUOVA DOLCE VITA(新しい甘い生活)」。古き良きローマの悦楽を現代に蘇らせ、新たな人生の楽しみ方を提案するグランドツアラーだ。2+2のシートレイアウトを持ち、日常使いさえ許容する懐の深さがある。
納車日は2021年、いみじくもクリスマスの朝。休診日の晴れた白い朝、クリニックの駐車場に積載車から降ろされる真っ白なローマは、まさに神々しかった。背後にそびえる紀州の深い山並みの緑を背景に、静寂を破って轟く乾いたエンジン音に、「これがフェラーリか」徹底的に圧倒されながら訳も分からず神妙な気持ちになったものだ。あれから4年以上が経過したけれど、ローマを愛する気持ちは今も変わらない。
【「アマルフィ」の衝撃】
ローマが本国で発表されてから約6年。かねてより噂されていた「後継機」となる新型クーペが2025年7月にヴェールを脱いだ。ローマの完成されたプロポーションを知る身としては、さらなる洗練の極みに達しているに違いないと期待値は成層圏まで上がっていた。
写真を見た瞬間、僕の視覚中枢は全く欲情しなかった。確かにローマの面影があり、デザイン的には破綻がない。しかし、魂がときめかない。
豊満なボディは削ぎ落とされ、筋肉質になった。ヘッドライトの形状や、やたらと未来的で薄くなったフロントマスクに、「これは新型プリウスか? それとも新型プレリュードか?」という既視感が拭えなかった。かつて僕を熱狂させた、あのイタリアの狂気的な美的感覚は、一体どこへ消えてしまったのだろうか。
しかも、その名は「アマルフィ(Ferrari Amalfi)」。
調べたら、「アマルフィ」とは、イタリア南部、ソレント半島の断崖に刻まれた世界遺産にも登録されているリゾート都市だそうだ。
ローマでの洒脱な暮らしぶりなら、僕のような日本の田舎モンであっても、おぼろげに夢想することはできる。しかし、困ったことに、僕ら日本人は休暇というものを知らない。バカンスやリラクゼーションという概念を肌身で知らぬ身には、ポルトフィーノやアマルフィでの贅を尽くしたリゾート生活と言われても、どうにも想像の翼が湿気ってしまうのだ。
【「日本のアマルフィ」雑賀崎の衝撃、そして崩壊する聖域】
「フェラーリ・ローマ」から「フェラーリ・アマルフィ」、歴史や都会生活への憧れがレモンイエローの軽やかさに舞っていくようなそのネーミング。どうも、その転換にピンとこない。そこで僕は、今回のネーミングを我が国、日本に置き換えて考えてみることにした。
仮にフェラーリを、日本が世界に誇る「トヨタ」と仮定しよう。首都ローマに対抗する名は、当然「トヨタ・トウキョウ」となる。では、件のリゾート地「アマルフィ」に対抗する日本の地名はどこになるのか。熱海か、それとも伊東か。「トヨタ・アタミ」「トヨタ・イトウ」……。
悶々としていたある日、情報通から「和歌山県内に『日本のアマルフィ』と称される漁港がある」と教えられた。その名は、和歌山市・雑賀崎(サイカザキ)。これは決してギャグの類ではない。本家アマルフィ市とも公に交流を持つ、由緒正しき町なのだ。
しかし、だ。「Ferrari Amalfi」と「Toyota Saikazaki」という、本来なら交わるはずのない二つの言葉が不意に脳内でリンクした瞬間、長年大切に温めてきた「非日常としてのフェラーリ像」が音を立てて崩れ去った。
本家アマルフィの断崖には、歴史の重みを湛えた瀟洒なホテルやレモン農園が並ぶ。対して、我が雑賀崎の断崖に並ぶのは、生活の匂いが染み付いた家々と、潮風に耐え抜いた力強い漁港の営みだ。
どちらが尊いかという話ではない。ただ、その生々しい生活感の塊である「サイカザキ」という響きを隣に置いた瞬間、フェラーリが纏っていたはずの「浮世離れしたリゾートの幻想」が、急速に現実の引力に引きずり戻されていくのを感じた。
既にデザインに対して抱いていた釈然としない思いに、このあまりにも生々しいローカルな現実が加わった時、僕の心は明確な脱力感に支配されてしまったのである。
【提灯記事の向こう側、正義という名のレクサス】
「六軸センサーとバイ・ワイヤの融合が、異次元の制動を生んだ」。TVの向こう側で評論家諸氏は、新型がいかに技術的に優れ、快適になったかを、立て板に水のごとく説き伏せようとする。
なるほど、技術の進歩は恐ろしい。だが、人体の構造には通じていても機械の腹の内には疎い医者にとって、そんな無機質な文字列は呪文も同然だ。具体的にそれが何を指し、僕の右足に何を語りかけてくるのか、一向に見当がつかない。
「限りなくフルモデルチェンジに近い」などと声高に深化を強調されればされるほど、僕の胸の内に住まう「眉唾センサー」が、不吉な震えを立てるのだ。
思わず、画面の向こうの彼らに、「ところで。そのポルトガルまでの航空券と宿代は、まさか自腹を切ったわけじゃないんだろう?」と問い詰めたくなる。こういうのを、世間では提灯記事と呼び、あるいは忖度と切り捨てる。
僕が愛車に求めるのは、過不足のない「正しい工業製品」ではない。日常生活の最適解を求めるならば、迷わずレクサスのSUVを選べばいい。あれは実によくできている。故障とは無縁、ディーラーのホスピタリティは完璧。リセールバリューまで含めれば、これ以上の「正解」はこの世に存在しない。
実際、僕のガレージにもレクサスGXが鎮座しているが、あれは家庭の平和と移動の安全を担保するための「理性の選択」だ。しかし、僕が求めているのは――。
【理性を凌駕する「情動」、フェラーリ・ローマという名の毒】
「疲れにくい」「街乗りにぴったり」、そんな軟弱な美辞麗句で語られるようになったアマルフィ。
だが、僕が手にした「ローマ」は根本から違っていた。衝撃、欲情、そして制御不能な情動。それらが貧弱な理性をあっさりとへし折った。「音がうるさい」「足が硬すぎる」……凡庸な物差しが並べる欠点など、ステアリングを握り、アクセルを一踏みした瞬間の快楽の前には、ただの雑音に過ぎない。
乗り手の呼吸を乱させ、正気を失わせるバイブレーション。紀州田辺にいながら、都会的で洗練されているという妄想を引き起こす「毒」こそが、ローマの正体だった。
僕は改めて、ガレージに佇むローマの、不器用なほどに豊潤なラインを愛でる。結局のところ、僕らは効率的に移動したいわけではないのだ。激しく、残酷なまでに心を揺さぶられたいだけなのだ。
「アマルフィは、いいかな」、僕は今、フェラーリ・ローマのシートに身を沈め、遥かイタリアの理想郷と、紀伊水道の潮風薫る雑賀崎の漁港とを重ね合わせ、ウミネコの鳴き声と錆びた船具の匂いが漂う「日本のアマルフィ」でひとり静かに苦笑いを噛み殺している。
そこには、本家イタリアのリゾートが湛えるレモンイエローの眩しさはない。僕の皮膚をチクチクと刺激するのは、紛れもない紀伊水道の泥臭くも力強い浜風だ。
この、滑稽で、しかし愛おしい「ハレとケ」の混濁こそが、僕にとっての「新しい甘い生活」の正体なのだろう。残クレという免罪符をポケットに、僕は明日もまた、この不自由で美しい真っ白な跳ね馬と共に、和歌山の道をどこまでも駆け抜けていく。





